100年のロシアPartⅡ 旧ソ連映画特集

9月17日(土)~25日(日)期間延長! アップリンクにて開催!
協力:ロシア文化フェスティバル/ロシア映画社 企画:パンドラ

100年のロシアPart1 特別アンコール上映!

10/1(土)
16:10『エルミタージュ幻想』
18:20『牡牛座 レーニンの肖像』
20:15『不思議惑星 キン・ザ・ザ』

10/3(月)
16:10『チェチェンへ アレクサンドラの旅』
18:20『変身』
20:15『日陽はしづかに発酵し・・・』

【料金】当日一律¥1000
※2本以上ご鑑賞のお客様は、2本目以降一律¥800

詳しくは アップリンク公式サイト


トークレポート 下斗米伸夫さん(9/21) その2

その1からつづく


●レーニンと古儀式派DSCN1711

レーニン主義というのを私自身は別な角度から見るようになっています。レーニンは1/4はユダヤ系、1/8がカルミックという我々そっくりなアジア人、そしてドイツ系もはいっていますがロシア人。この人はボルガの革命家です。
ロ シア帝国とソ連帝国という二つの帝国が終わって初めてよく見えたことのひとつに、宗教、とくに古儀式派という異端の潮流があります。実はロシア帝国という 正教国家とは、1688年の宗教改革で生まれた改革派の潮流がウクライナと連合して作った国家です。1721年にロシア帝国が作られ、ピョートルという大 男がオランダに行って技術を学んでペテルブルクに都を作り、バルチック艦隊を作り、南に下がって露土戦争をやった。これがロシア帝国です。
それ以 前の古いロシアの人々は別の儀式で信仰を維持してきた。モスクワからシベリア・ウラルあたりに、ロシア正教会の中で一種原理派的な人たちがいたのですが、 1680年前後の宗教紛争の中で追放される。古儀式派とかドストエフスキーの小説の主人公の呼称でもありますがラスコリニコフという人たち。反ロシア帝国 の反戦運動までやる人たち、あるいはトルストイと組んで帝政ロシアの反軍運動をやった人たち。なぜこの流れの人が反軍運動をやったかというと単に平和主義 者だったからではない。彼らから見るとロシア帝国は宗教的な裏切り者、サンクトペテルブルグは反キリストの街である。自分たちの本当の信仰はモスクワであ る。モスクワは第3のローマだ、という考え方を持つ非常に原理主義の流れが二百数十年間生き残り続けます。これが20世紀に再生したのです。日露戦争での 帝国ロシアの動揺、そしてロシア革命です。ロシア革命もこの流れを見ないとわからない。
この人たちがなぜ革命で帝政ロシアを倒したか、そして先ほ どお話したスターリングラード辺りのコサックの人たちも、基本的にこの流れです。日露戦争で帝国は揺らぐ。なぜか。満州で帝政ロシアに動員されたのが基本 的にこの兵士たち、農民たちであります。帝国のために戦いたくない、やる気はない。宗教帝国である帝政ロシアは、イスラム教徒も仏教徒までちゃんと葬って も、古儀式派の兵士が死んでも宗教儀式なしに、満州にほっといた。これに怒ったのが日露戦争での民主化運動を担った人、つまりモスクワの古儀式派大資本家 や労働者、実はこの人たちは真面目な人、一種のプロテスタントです。真面目過ぎる、厳格である、信仰のためだったら死をも厭わない。こういう人たちであり ます。同時に、アンダーグラウンドでお金をたくさん持っている。ネットワークを持っているわけです。正教会のややモダニスト的な解釈の聖書ではなく、古い 書体の古儀式派の宗教書を、彼らはアンダーグラウンドで印刷していた。
レーニンのボリシェビキを助けたのも彼らです。ボルシェビキ党が自分たちの アンダーグラウンドの出版局を作ったのではなく、この古儀式派の情報ルートにいわば乗る形で「イスクラ」という新聞を作る。レーニンの「イスクラ」にお金 を出したのがモスクワ芸術座のオーナーでもある繊維工業の資本家ザッバ・モロゾフ。モスクワはこの人たちの都です。いまでもトレチャコフ美術館に行くとも この人たちの信仰を示すスリコフのモロゾフ公爵夫人の有名な絵があります。二本指のシンボリズムがよく見るとあります。ちなみに彼の子孫がソ連国歌に詞を つけ、それだけでなくロシアになったときにも詞を書いたセルゲイ・ミハルコフ。その息子は『12』『戦場のナージャ』のニキータ・ミハルコフ監督です。モ スクワをそういう形で見ると大変面白い。例えばプロレタリア作家のゴーリキーも昔この人たちのためにイコン画を描いたわけですが、彼が晩年すんだリャブシ ンスキーの館も古儀式派の資本家だった。ゴーリキーはその古儀式派の祈祷室を保存するのです。またモロゾフが彼らと組んだモスクワ芸術座というのは簡単に 言うとモスクワの反帝国的拠点でした。ペトログラードの帝国に対するもうひとつの隠れたるロシアでした。二都物語ですが、革命モスクワはこうして伝統モス クワと繋がる。
モスクワ攻防戦は6月22日に始まり、9月にはクレムリンは陥落寸前だったわけです。ところが極東のシベリヤ軍団が、ゾルゲ情報で 日本軍が対米戦争に向かうという情報によってモスクワ防衛戦に参加、さらに冬将軍が来て、41年の冬はもの凄い寒かったわけですけども、ここでシベリヤ軍 団は『第3のローマ』を膨大な犠牲を伴いながら守りきった。やはり戦う兵士がいなくては戦えない、
こういう風にみるとモスクワ防衛や祖国を守るに もの凄い強い軍隊なのに、対外戦争でソ連が意外に脆いかわからないだろうか。あるいはフィンランドで負け、そしてこのウクライナでも苦戦する。後の時代で すが、1979年からはアフガニスタンで負ける。これが何となくお分かりになるんではないかと思います。ロシア人の中のパトリオティズム(愛国主義)はイ デオロギーのために、世界のプロレタリア革命のために死んだわけではなく、お母さんのため、家族・恋人や自分を生んでくれた人たちのために死をもいとわな い。

●ソヴィエトとは何か
スターリンの政治局員や軍人は、ユダヤ系の人たちを除くとかなり多くが古儀式派の流れにあった人たちで はないかと今考えています。例えばワシレスキー将軍です。この話は映画「大祖国戦争」には全然出てきませんが、1945年8月には170万の軍隊を満州の 野に展開します。ワシレスキー元帥のお父さんはイワノボ・ボズネセンスクというモスクワ郊外の古儀式派地域の聖歌隊の隊長さんです。イワノボ・ボズネセン スクは、1905年に世界で最初にソヴィエトという組織が出来た町です。イワノボは赤軍を作ったフルンゼが出てきた都市でもあります。「ソヴィエトの兵士 は強い」と書かれた記録があります。
ソヴィエトって何ろうか。ソ連時代に歴史家は誰も説明できなかった。私の今の説は、私の説がまだ学会で受け入 れられるというわけではありませんが、古儀式派と関係がある。実は教会を持つことを300年間くらい禁止された人たちが、農村で、あるいは自分たちの作っ た小工場で密かな宗教儀式を持っていました。これに二つ流れがあって、聖職者はやっぱり必要だという派と、聖職者は要らないというグループと。後者は30 から50くらいに分かれるんですけれど、このイワノボ・ボズネセンスクというのは儀式は必要だというグループ。イワノボ・ボズネセンスクは実はこの古儀式 派の拠点だった。工場を作り、その中で宗教儀式をやっていた。そして1905年で帝国が日露戦争もあり、動揺した結果、民主化運動を起こし彼らはようやく 教会と政治とを分離することができた。複数政党制ができた。あるいは議会ごときものができた。そしてその運動の一番の中心人物たちは古儀式派資本、モスク ワの古儀式派資本の代表者たち、豊かな人で当時政治力がありました。ですから大祖国戦争で、なぜモスクワをあっという間に守ったのか、しかしその後ウクラ イナ解放までに時間がかかったのかというと、私はソヴィエトとソ連史を繋ぐネットワークを指摘したいと思います。

 ●革命の背景
どうして スターリングラードでロシア兵士は命を投げたのか。スターリンのためではない、ボルガ、とくにコサックの流れには古儀式派的なものが脈々としてあります。 実はロシア革命が起きるひとつの理由もそういう古いロシアが関係します。ロシア革命が起きた時レーニン政府はウクライナといったん切り離すわけですね、そ してソ連が崩壊するっていうのもウクライナとロシアが協議離婚してソ連というのがなくなるわけです。これをやったエリツィンも祖父はウラルの古儀式派で す。ウクライナは半分カトリックの国、逆にいうと帝政ロシアは半分カトリックのウクライナと、古儀式派的なモスクワをくっつけて、南にあるオスマン・トル コという国のキリスト教徒の奪還のために作った。歴史を動かす力というのは、普通の人たちが自分の父祖の地を守り、そして戦うというところにあるのではな いか、と思います。
レーニンが作った無神論国家で、グルジアで神学校にいたことがあるスターリンが正教会を認めたのが1943年。コミンテルンも 解散したのは1943年。コミンテルンは解散したけども、ブルガリア人のディミトフはソ連共産党国際委員会として、野坂参三とかいろんな人とずっと会うわ けですね。

●冷戦からソ連崩壊へ
あとひとつ。大祖国戦争末期に戦争の革命が起きます。核兵器の出現です。ところがソ連に実はウラ ンはなかったのです。まだ発見されていなかった。ところが170万とか500万とかの軍隊より核兵器は力があった。スターリンは当時ソ連軍が占領した地域 で必死にウランを探し、それのあった地域、ブルガリア、チェコ・スロヴァキア、東ドイツ、そして北朝鮮で見つけました。そのことを考えると冷戦という次の 戦争のなかでどうして東欧(や朝鮮半島)が分断され、40数年後にゴルバチョフの手で解放されたのか、そういったこともお分かり頂けるのではないかと思い ます。

(了)

トークレポート 下斗米伸夫さん(9/21) その1

9月21日に行われた下斗米伸夫さんのトーク概要を掲載したします(一部を加筆修正)
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●『大祖国戦争』雑感DSCN1672
先ずこの映画のタイトル、『大祖国戦争』です。『第二次世界大戦』ではない、この差異
に先ずご注目いただきたいと思います。この映画は見事な実写に基づくプロパガンダ映画です。ソ連に対するヒトラーの攻撃に始まり、1945年5月9日の赤の広場での有名なパレードで終わっている。つまり今ロシア大統領メドベージェフ氏が胡錦濤主席と確認した第二次世界大戦終結記念日の1945年9月2日ではない。またこの映画のシーンには伝説的なジューコフ将軍が白馬に乗って勝利を祝うシーンもなければ、スターリンが出ているわけでもない。大祖国戦争というキーワード、これはある意味でロシア人の戦争観を表すものです。

●スターリンの戦争
第二次大戦は周知のように1939年8月23日スターリンがナチス・ドイツと不可侵条約を結んで9月から始まる。ポーランドを分割し、バルト諸国を併合する傍ら赤軍がフィンランドに攻め入って1939-40年に大敗をする。「冬戦争」といいますが、フィンランドに攻め入ったソ連軍はフィンランド軍の猛烈な抵抗にあう。ソ連軍の大敗の程度は分からない。フィンランド軍で死んだ人は2万5千人から5万人くらい、ソ連側は公式的には13万から20万というのがなくなったと発表されています。フルシチョフはある時「100万人のソ連軍が死んだ」と口走ったことがあります。これは過ぎかと思うのですが、理由のないことではありません。実は中央アジアのタジキスタンの兵士を冬のフィンランドに連れていった。スキー部隊もなかった。そういうことを1939-40年にやって、逆に世界中がソ連を批判、1935年にくわわった国際連盟から排除される。これが第二次世界大戦の前半で、そして後半が1941年6月からの独ソ戦、これを大祖国戦争というわけです。

●ドイツ軍のモスクワ侵攻
不可侵条約があったドイツが1941年6月22日、ちょうど夏至の日、作家ボイノビッチ『最も短い夜』といった日ですが、裏切って戦争を開始する。モスクワのシェレメチェボ空港から一寸入ったところにあるヒムキやモスクワ大学近くまでナチス・ドイツがやってきた。これにスターリンはショックを受けて一週間ほど寝込んでしまった。スターリンが開戦直後全然戦争指導ができなかったというのは間違いで、おそらく最初の数日間はまだクレムリンに踏みとどまった。しかし赤軍が大敗し、次々に何百万という単位で投降してゆく、そのプロセスにスターリンがショックを受けて寝込んでしまったのは事実です。
それから6月末政府の最高軍事指導部である国家防衛委員会を創設するということを伝えに、モロトフやミコヤンがスターリンの別荘に行ったとき、スターリンは自分を逮捕に来たと勘違いした、とミコヤンは回想録で書いております。
スターリンと将軍たちと民衆との一体というこの映画のナレーションは勿論フィクション・宣伝であります。
 たとえばフルシチョフは、この戦争の時スターリングラード攻防戦の政治委員として、指導していました。天才的な戦争指導者と宣伝されていたスターリンが、何の防御もせずにヒトラーの攻撃を易々と許し、初戦で大敗したという暴露を、有名なスターリン批判の第20回党大会(1956年)でやった。例えば共産党幹部たちが粛清されたとかいろいろ言うのですが。この批判に恐らくソ連国民、あるいは世界中で一番びっくりしたのは、毛沢東や朱徳など中国共産党でしょう。20回党大会に出席して、スターリン批判をフルシチョフが始めるというのに大変ショックを受けるわけですね。
 この映画で交響曲レニングラードが出てきます。作曲家ショスタコーヴィチの回想を書いたとされるボルコフによると、1937年にスターリンによって粛清されたソ連の元帥トハチェフスキーに捧げられたという説がある。歴史にifはないのですが、もしトハチェフスキー等の赤軍幹部が生きていたら、スターリンは、あるいはヒトラーはこういう戦争をやっただろうか、という話があるわけであります。あるいは今この映画の中でたくさんの死体・死者をみたわけですが、実はこの十年前に、1932年から33年にかけてスターリンは国を工業国家に仕立てようとして、それまでに始めていた工業化5か年計画を3か年に縮め、無理矢理工業化を加速した。農民を犠牲にしてトラクターを作った。トラクターは一寸仕様を変えると戦車工場になる。その犠牲者の出たウクライナやロシア南部地域は戦時中スターリンに批判的であったとしても不思議でっはない。そこにナチが侵入してきた。
独ソ戦は簡単に言うと、ドイツの誇るルール炭田・クルップ製鉄所と、ソ連が誇ったマグニトゴルスクス製鉄やクズネツ・ドンバス炭田との体力勝負だったわけです。実は18世紀のロシアには世界最大級の製鉄所がウラルにあったわけです。ロシアは決して貧しい農民国ではなかったが、スターリンの工業化は、一方で農民を敵に回しながら、他方で巨大な軍需工廠作り上げた。

●大祖国とは?
この映画の言う大祖国、祖国とは何か。実はこの映画の中にヒントがあります。ボルガ、つまり母なるボルガを守って、そしてドニエプルを越えて、ベルリンまで反撃するというキーワード。このドニエプル川と、キエフですね、それからボルガ。ボルガ川はモスクワの北を通って今のタタール共和国あたりまでです。ルーシとはもともとボルガとドニエプル川に挟まれた地域をいった。ボルガにはさらにタタールもあった。ロシアの将軍たちの多くはタタール人です。クトゥゾフだとかナポレオンをやっつけたのはタタール人。今でもロシア軍の将校にはかなりタタール人がいます。スターリンは戦争中モスクワを離れませんが、首都を臨時にクイブシェフと言った町に置きます。クイブシェフは今サマーラと言い、イタリアの有名な自動車工場があります。その南にあるのが母なるボルガのスターリングラード。モスクワ、レニングラード、スターリングラード、母なるボルガ、そしてドニエプル川、この地域を守る戦いが大祖国を守る戦いです。ロシア兵たちはこのためにだったら命懸けです。後年、大祖国戦争への評価が変わり、フルシチョフ時代には死者が千万単位で言われたことがあります。赤軍の名簿によると戦死者の数は886万人くらいですが、しかしブレジネフ時代には2,000万人死んだ、そしてゴルバチョフがドイツ統一を認めるころに2,700万人が死んだと言われるようになりました。恐らく本当のことは誰にもわからないであろうと思います。

●スターリンの過ち
スターリンはその十年前、東に満州国ができ、西に1933年ヒトラーが出てきて両方に挟み撃ちにされるという恐怖から、ウクライナなどで農民を犠牲にしても工業化を強行します。国交がなかったアメリカと組むためにジョージ・ケナンだとかそういう人を通して、民主党のルーズベルトと手を組み日本を牽制させる。ヒトラー=ドイツの台頭に対しては英仏と組む。国際連盟に入り、統一戦線戦術でソフト路線を出す。
しかしスターリンの犯した過ちは、映画に見えますが第二次世界大戦のいろんな局面に現われている。例えばドイツ軍がウクライナに入ってきた時、ウクライナ農民はそれまでのスターリンの飢餓で700万人程度死んだこともあってナチを解放者と歓迎します。もっともヒトラーのスラブ人劣等民族論からウクライナ人の態度はすぐに変わりますが。反攻計画がスターリングラードから始まる、しかしウクライナのキエフは44年まで解放されない。この背景に何があるかというと、ウクライナ農民の複雑な感情がある。農民が餓死した経験は消えないし、総力戦では民衆の態度が鍵になる。ここはコサックの村です。コサックというのはボルガとウクライナの間に暮らしていました。
スターリンのこの工業化と飢饉に1933~34年に赤軍はかなり動揺するわけです。スターリンというグルジア人を指導者にするのはまずい、という地方幹部の一部がセルゲイ・キーロフというロシア人を代わりの書記長にしようと、1934年の第17回党大会で現れる。これは歴史的に証明されています。
スターリンは1936~37年のスペイン内戦でも、赤軍の十月革命かなんかで最もラディカルにやった革命家や、ゾルゲを東京に派遣したベルジンなどを送り込んだ末に粛清した。またこの戦争では武器代金のかわりに共和国政府の金をとったということを英国の歴史家のビーヴァーが「代理世界戦争」と言っております。そのあまりにも稚拙で暴力的なやり方にイギリスの指導部は驚いて、スターリンの外交政策に批判的になり、そのこともあって宥和政策で親独的に傾いた。

その2へつづく
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