100年のロシアPartⅡ 旧ソ連映画特集

9月17日(土)~25日(日)期間延長! アップリンクにて開催!
協力:ロシア文化フェスティバル/ロシア映画社 企画:パンドラ

トークレポート 植草信和さん(9/18)

ご紹介いただいた植草です。これから「メキシコ万歳」をご覧になっていただくのですが、その前に少しお話しするようにと主催者から言われていますのでお付き合いいただければと思います。とはいえ、名作を鑑賞する前につまらないことを聞かされる不愉快さは充分分かっているので「メキシコ万歳」がどのようにして生まれたのかを手短に話して早々に切り上げるつもりですので、少しお付き合いください。

●『メキシコ万歳』悲願の完成が実現するまで植草さん2 DSCN1626
エイゼンシュテイン研究家であるアメリカ人のジェイ・レイダが作った「エイゼンシュテインのメキシコ・プラン」というフィルムは「メキシコ万歳」に関する最も重要な映像資料といわれています。これを見ている日本人はロシア映画研究家の山田和夫さんだけだと思いますが、彼はそれを見たときのことをこんなふうに書いています。

「ジェイ・レイダは1955年、ニューヨーク近代美術館に保管されていた『メキシコ万歳』のネガフィルム21万9千フィートを発見した」5,400フィートが約1時間ですから40時間くらいのフィルムになります。
「レイダはそのネガフィルムを綿密に検討し、うち2万5千フィートを使って、撮影された順にそのまま繋ぐことに成功、長編研究映画『エイゼンシュテインのメキシコ・プラン』を作り上げた。
私は1963年、モスクワ映画祭が終わってからレニングラードを訪れたとき、浦山桐郎監督とともに幸運にもこのフィルムの一部を見せてもらった。一部といってもちょうど半分にあたる二時間分であったが、ひとつひとつのシーンがリテイクされたまま繰り返され、かえって製作現場の息吹を感じさせられて飽きることがなかったし、ショットの美しさ、壮大さはいうまでもない。
この研究映画もひとつの促進剤となって『メキシコ万歳』完成の機運が盛り上がった。そして国立の映画保存所である「ゴスフィルムフォンド」とニューヨーク近代美術館の協約にもとづき、1973年、ついに『メキシコ万歳』のネガフィルム約12万フィートがモスクに戻った。
現存する当時のスタッフはもはやアレクサンドロフひとり。彼も病気がちである。一日も早く、エイゼンシュテイン終生の痛恨となった『メキシコ万歳』が、可能な限りオリジナル構想に近く完成されることを待望したいものである」

この文章は、山田さんが監修したキネマ旬報の「エイゼンシュテイン全集」全10巻の4巻目に収録されたものです。余談ですけれどもこの「エイゼンシュテイン全集」は私が入社した1970年から刊行が始まって、駆けだし編集者時代に下落合にあった山田さんの自宅に原稿をいただきにあがりました。
この文章でおわかりのようにこれが書かれた1976年には、「メキシコ万歳」はまだこの世に存在していません。映画が完成したのは1979年ですから、この文章が書かれた3年後です。そしてこの文章の中に出てくるアレクサンドロフという人物は「メキシコ万歳」の助監督でありシナリオ共作者で、「メキシコ万歳」は彼の超人的な努力とねばり強さによって完成しました。

●映画の都ハリウッドに迎えられるも…
エイゼンシュテインがメキシコで撮影を始めたのが1931年10月ですから、完成まで48年の歳月を要したことになり、これは映画作りをめぐる壮絶かつ壮大なドラマだと思います。
ではその48年間にどんなことが起こったのか、資料を基にお話ししてみたいと思います。

映画史に残る不朽の名作とされる「戦艦ポチョムキン」が作られたのは1925年、大正14年です。
この一作によってセルゲイ・エイゼンシュテインの名は世界中に轟き、世界最大の映画の都・ハリウッドに招かれました。1929年、エイゼンシュテイン31歳のときです。
当初は「パラマウント映画」と契約が結ばれ、シオドア・ドライサー原作の「アメリカの悲劇」のシナリオを完成させたのです。それは貧しい青年が犯罪を犯してのしあがっていくというお話ですが、エイゼンシュテインが書いたシナリオではその青年は無罪になります。その強烈な階級的テーマは資本家を怯えさせ、企画は挫折します。ハリウッド方式とソビエト方式の映画の作り方、考え方があまりにかけ離れていたことも原因だったと思います。
「アメリカの悲劇」はのちにジョージ・スティーブンス監督で映画化され「陽のあたる場所」というタイトルで公開されているのでご覧になった方も多いのではないかと思います。

●悲劇の始まり=映画作りのシステムの違い
失意のエイゼンシュテインに助け舟を出したのがメキシコの画家ディエゴ・リヴェラでした。フリーダ・カーロのパートナーとしても知られている著名な画家ですが、彼はエイゼンシュテインにメキシコで映画を撮るように勧めました。
エイゼンシュテインはハリウッドで友人になったチャールズ・チャップリンに相談したところチャップリンは賛成し、当時資本主義批判の小説で売り出していた作家アブトン・シンクレアをスポンサーにすることを勧めます。
シンクレアはこの話にのって製作資金を集めつつ「メキシコ映画トラスト」という、一種のファンドだと思うんですけど、設立して、エイゼンシュテインはその契約書にサインします。
それがどんな契約書だったのか、見てみましょう。

「この予備的な合意は、モスクワのセルゲイ・M・エイゼンシュテインとカリフォルニアのメアリー・クレイグ・シンクレアとのあいだにおこなわれる」の一文ではじまります。
メアリーとは「メキシコ映画トラスト」を設立した作家アブトン・シンクレアの夫人です。

条項
① エイゼンシュテインはメキシコに行き、仮題「メキシコ映画」と題される映画を監督したいと思っているがゆえに、またシンクレア夫人はその映画に資金を出し所有したいと思っているがゆえに、エイゼンシュテインはメキシコ・シティに行き3~4ヵ月間、その能力の最善をつくして献身的に働くことに同意すること。

条項
② エイゼンシュテインは彼がメキシコで監督した映画のすべて、すべてのネガティブ・フィルムとポジティブ・プリント、そしてすべてのストーリーとアイディアはシンクレア夫人の財産であるとこ、また上述の材料を彼女の欲するいかなる形でも、いかなる値段でも市場で売買することができる。そして本作の全世界に対する権利について彼女が単一の所有者であり、彼女の名で本作の著作権を自由に処理できることに合意する。

条項
③ エイゼンシュテインがそれらの約束を遂行することを信頼して、メアリー・クレイグ・シンクレアは2万5千ドルの資金を作ること、その金額がリクープされたのち販売、賃貸によって受領する額全体の10%をエイゼンシュテインに支払うことに同意する。

もう少しあるのですが、これが契約書の骨子です。
この契約書へのサインが「メキシコ万歳」の悲劇の始まりになるのですが、資本主義映画界の実務的な習慣に不慣れだったとはいえ、エイゼンシュテインはかなり無造作に全権をシンクレアに委ねていることが分かります。そして「編集権」も当然自分にあると信じきっていましたが、この文脈では撮影済みフィルムの権利は出資者のものとしか思えません。
このへんは、昨日(9月17日)野上照代さんもお話になっていましたけれども、黒澤明監督がアメリカ資本で作ろうとして失敗して自殺未遂にまで追い込まれた「トラ・トラ・トラ!」のケースと大変よく似ています。黒澤監督も契約書というものにまったく興味をもちませんでした。偉大な芸術家の宿命というものでしょうか。

植草さん1 DSCN1625●新天地メキシコに魅せられる
エイゼンシュテインは最初、メキシコの歴史と自然と人間を紹介する「旅行記」的映画を考えていたらしく、助監督のアレクサンドルフ、カメラマンのエドアルド・ティッセの三人は1930年12月、メキシコに入り、ロケハンとシナリオ作りに着手します。

ただ先述の山田さんが後日、キネマ旬報に「『メキシコ万歳』その歴史と再生の意味」という原稿を寄稿したのですが、それを読むとエイゼンシュテインは当初の「旅行記」的映画からメキシコそのものを描きたいという欲望が次第に強くなっていったようです。ちょっと読んでみましょう。

「その自然と人間と文化の魅力がエイゼンシュテインを夢中にさせ、彼の構想をどんどん膨らませていく。特に彼を狂喜させたのは、二千年の歴史のさまざまな発展段階が空間的・地理的に共存しているという事実だった。(中略)こうしてエイゼンシュテインはカメラとともに、空間的・地理的に移動するだけで、メキシコ二千年の時間と歴史を描く壮大かつ野心的な『メキシコ万歳』の構想が固まる」

という風に山田さんはお書きになってますけれど、これを読みますとエイゼンシュテインは最初は単なる興味だけだったものが、メキシコそのものに魅せられていったということがよくわかると思います。

●撮影中止、そしてプロジェクトの頓挫
言葉も通じない不慣れな土地で幾多の困難を抱えて、しかもたった3人だけで撮影は進められましたが、やがて資金とフィルムが底をついたとき、シンクレアによって撮影中止命令が下されました。
エイゼンシュテインは23万4千フィートのネガフィルムを残してニューヨーク経由でモスクワに帰ります。「次の便でネガを送る」というシンクレアの言葉を信じていたので、計画のすべては撮影できなかったけれども、それほどの挫折感はなかったと思います。なぜなら、エイゼンシュテインはモスクワに帰ってすぐ、撮影済みフィルムを想定したシナリオの第二稿を執筆しているからです。
しかしネガフィルムが届いたのはそれから40年後の1972年、エイゼンシュテインが死んで24年が経っていました。
シンクレアは約束を守らず、製作費回収のためネガを売り出していたのだから届かないのは当然ですが、最高傑作を作ろうとしてネガの到着を待ち望んでいたエイゼンシュテインの気持ちを思うと言葉がありません。

エイゼンシュテインが帰国した翌年の1933年、昭和8年、「メキシコの嵐」という映画が公開されるという衝撃的な事件がおきます。シンクレアが製作費回収のために売り出したネガフィルムを買い取った映画業者が、エイゼンシュテインの名前を勝手に使って編集した映画ですが、この他にも「死の日」と「陽のあたるとき」という映画も同じような意図で作られました。

これを知ったエイゼンシュテインは、「『メキシコ万歳』の撮影済みフィルムは周知のとおり私から奪われてしまった。この映画に投資したグループがモスクワの私にフィルムを送ることを拒否したからである。後になって、私が編集したものではない、そして非常にいまわしく編集された、私たちの意図全体を完全に歪曲した、三つの独立した断片的な映画が作られた」と語っています。
先ほども言いましたが、その悔しさ怒りはいかばかりか、胸が痛みます。

●それでも映画は生き残る
このような背景から生まれた「メキシコ万歳」は、上映時間にするとわずか88分の映画ですが、そこには想像を絶する涙と汗と歳月が染みこんでいます。
そんなことを考えて鑑賞すると、少しだけ深く映画の中に入っていけるかもしれません。

最後に映画評論家の大黒東洋士さんの映画評の一部を紹介して私のトークを終わりにします。
「メキシコの伝統、文化、宗教、風俗習慣への作者の思いが、この一作にのめり込んでいるかのようで、フィルムのはしばしに暖かい目が感じられる。ヒューマニスト、エイゼンシュテインの面目躍如たるものがある。49年ぶりに陽の目を見たという古さなどどこにもない。記録とドラマの織りなす映像のシンフォニーであり、エイゼンシュテインが第三世界に限りない讃歌を寄せた民族叙事詩でもある」。

ご静聴ありがとうございました。

トークレポート 野上照代さん(9/17)

●黒澤明監督の暗黒期…?DSCN1575s
『デルス・ウザーラ』のスタッフの(後ろに協力監督の川崎さんがいらっしゃいますが)数少ない生き残りです。『デルス』は黒澤さんの、いちばん苦しみもがいた作品です。黒澤さんは『赤ひげ』の辺りまでは輝かしい傑作がずっと続いた訳ですよ。その後『暴走機関車』は失敗して(注①)、そして彼がご存知のように『トラ・トラ・トラ!』で監督を交代というか、クビになったもんで(注②)、その後殆ど5年間空白の時代があって、『トラ~』(の降板の理由)が病気ということになっていたんですから、その名誉挽回のため『どですかでん』を撮りましたが、私はとってもいい作品だと思うんですが、商売的には非常に悪かったんですね。それのショックもあったんでしょうが、絶望的になって彼が自殺未遂までやったんですけれど、もう崖っぷちを一人で歩いているようなもんで、これがダメだったらもう、後はなかったですね。

●ソ連からの申し出
そこへソ連から「ウチで映画を撮らないか」という温かい言葉をもらって、それでもやっぱり怖かったんじゃないですかね、外国とやるのは。で、ソ連の方もアメリカが『トラ~』でひどい仕打ちをした後ですから、ウチんとこは違うぜってなもんでかなり対抗意識もあったんじゃないかと思うんですけど、ただ非常に条件が厳しかったですね。一例を言えば飛行機だってエコノミーで、私の隣で窮屈なアエロフロートに乗って…黒澤さんがエコノミーですからねぇ。それに黒澤さん以外の日本人スタッフは5人しか駄目だってことで、そこにいらっしゃる、協力監督の川崎さん、プロデューサーの松江(陽一)さん、それから私ともちろんキャメラの中井(朝一)さん、それと助監督、とにかく5人以上は許してくれなかったんですから、それでも黒澤さんはそれを呑まざるを得ないくらいに後に引けない状況だったんです。普通はなかなか決断できませんよね、初めての外国の、しかも大作で。もの凄い決断だったと思います。

●『デルス・ウザーラ』の映画化に向け動き出す
ソ連からの話で何か映画の題材として提案しろというときに、黒澤さんはロシア文学で育って、好きですからね、ドストエフスキーの「死の家の記録」とか、いろいろ案はあったんですよ。その中に探検家アルセーニエフのウスリー地方の探検記ってのがあって、「えー『デルス』を知ってるのか」と向こうも喜んだそうで、決まったんですね。デルスっていうのはロシア語ができないような案内人で、アルセーニエフとの友情ですね。黒澤さんは余程人間の優しさに飢えてたんじゃないか、ああいうのを撮りたかったんですよね。アルセーニエフ役のユーリー・サローミンさんは演技がよくて黒澤さんもすっかり気に入って、デルス役の、トゥワ(Tyva)って国の劇団の主宰のマクシム・ムンズクさんは、随分いろんな候補を見たけど結局ムンズクさんになって、キャスティングが良かったこともあります。それとキャメラの中井さんがほんとに素晴らしかったと思います。だって照明も連れてかなきゃ助手も連れてかない、一人ですからねぇ。で向こう行ってロシア語もちろんしゃべれないから、でも日本語で平気でみんなとしゃべって「そうだそうだうんうん」とやってたけど、とてもみんなからも好かれて、キャメラもよかったですしね。

●困難を極めたソ連での長期撮影
黒澤さんがいつまでも(『デルス』撮影中に)被っていた帽子を、ボロボロになったらまた同じ帽子を手に入れ被ってんのも、あの時のことを思やぁどんなことでも我慢できるよという言葉のように思います。『デルス・ウザーラ』を見ると自然にどんどん撮ってるみたいだけど、彼は画家でもあったから、画面は全部創ります。どのカットも全部、枝を持って来たりして手を入れてね。それを自ら先に立ってやると、ソ連のスタッフも一緒になって、日本での撮影と同じように全員で創るようになるんですよ。足掛け三年の撮影で最初はシベリアの八か月のロケでしたけれど、寒いときは零下三十何度で、通訳の人は拡声器を持ってしゃべっていると髭が凍り付いて離れないくらいだし、その寒さはやっぱり凄いですね。でもシベリアは夏が凄いんですよね。黒澤さんは夏に弱いこともあるんだけど、ほんとにマイってました。また食事が大変(笑)、軍隊が(撮影隊の)横についてるんですよね、で彼らが食事を作ってくれるんだけど、ひまわりの油がぎたぎた上に浮いているようなシチューとかね、黒澤さんは大体納豆が好きで(笑)、中井さんは冷奴とか湯豆腐ないのかなんてひとですからね(笑)食事はつらかったと思いますよ。食事の苦労と寒さの苦労と、そういう苦しみが黒澤さんにウォツカを呑ませたのもあります。もともとお酒の強い人だけど一日一本は普通でしたね(笑)。それで昼間の撮影を振り返り「どうしてああいう風に撮れなかったんだ。俺はこういう画が撮りたかったのに」なんて言ってね、泣くこともあるんですよ、つらかったんだと思うんですけどね。まあそのころあたしはあんまり優しくしてあげなかった(笑)ので、いい子いい子と言ってあげりゃよかったんだけど…。

DSCN1585s●虎のシーンには秘められた裏話が
『デルス・ウザーラ』は探検記だから動物なんかたくさん出るんだけど、その中でも虎の撮影は一番成功してます。でも黒澤さんが言うのにはサーカスの虎じゃ目が濁ってるっていうんですよ(笑)、人間に芸を仕込まれて堕落して。で野生の虎にしろってんで、向こうの製作のひとが野生の虎の子どもを捕まえたんです。黒澤さんが「バカ、子どもの虎じゃダメじゃないか」って言ったら、いや撮影のころにはちゃんと大きくなるって。で、ほんとに大きくなった(笑)。だけど野生だからあっち行けこっち行けったって駄目なんですよ。黒澤さんは地団駄踏んで怒るんです。「どうして出来ないんだろうね、あそこで一寸止まってこっちに来りゃいいんだよ」(笑)そんなこと言ったってね。なので野生の虎は木から木へひらひらって行くとこしか使ってない、あとはセットで結局サーカスの虎です(笑)。黒澤さんは俳優さんと動物の入れ込みをワンカットは作んないとつまんない、でもどうしても撮れない。やっぱりサーカスの虎はストップて言ったら止まるし使いやすいんですよ(笑)。まあご覧ください、よく出来てます。これはね一週間以上(撮影に)かかったな。

●違う言語で映画を造るということ
言葉が通じない中であれだけやったっていうのは大変だったと思います。私自身が考えるには外国で映画を造るってのはね、不可能ですよ。だから『トラ~』も結局成功しなかったと思いますけど、言葉の通じないところで映画を造るってことは、これは台湾のホウ・シャオシェン(候孝賢)も言ってましたが、自国で撮るのとは同じようには出来ない(注③)。だからよその国でやることは、言葉が通じないってことは無理だと。『トラ~』で黒澤監督は山本五十六を撮りたかったんですよ。自分とも重ね合わせて、と言っても(ほかの映画でも)いつもそうなんですけど。だけどアメリカは『史上最大の作戦』みたいな大活劇の予定だったんで始めっから食い違ってた。だからロシアとの場合は、『デルス・ウザーラ』を題材に選んだのはよかったと思います。ほんとに外国で言葉も通じないところで撮ること自体大変だけど、それでこれだけの傑作を造ったというのはやっぱり大変な才能だと思いますね、普通できませんね。

●黒澤監督の苦闘の跡を後世に伝えたい
 私はもうこうやってお話したり本を書いたりいろいろしてるのも、黒澤さんをもっと理解してあげればよかったと、よく言われるように“孝行したいときには親はなし”みたいな感じで申し訳ないと思うこともあって、彼がどんなに大変だったかということを伝えておきたいという気持ちもあって、この『デルス』についての本を出したい、私の最後の仕事で、何とかして黒澤さんの苦労を伝えときたいと思っていま原稿を書いてんですけど、果たして出るかどうか分かりませんができれば来年に出版したい。その時はぜひ見てください。ロシアのはワシリフさんと一緒に出したいと思ってます。有難うございました。


注①    85年にN・ミハルコフの実兄A・コンチャロフスキーの監督で米で映画化
注②    70年にR・フライシャー、舛田利雄、深作欣二の共同監督で完成
注③    候孝賢は03年に日本で『珈琲時光』を、07年に仏で『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』を監督

9/17トークゲスト 野上照代さん

野上照代さんは黒澤明監督の『羅生門』(1950年)にスクリプターとして初めて参加。『生きる』(1951年)以降の黒澤監督19作品全てにスタッフとして参加した。黒澤監督が『トラ・トラ・トラ』(1968年/20世紀FOX)での監督降板や自殺未遂事件の後に、ソ連から招かれて『デルス・ウザーラ』撮影のためにシベリアに行く際に、僅か5名の日本人スタッフの一人として参加。
なお、野上さんは日本映画界の重鎮として文化庁映画賞映画功労賞(2005年)、日本アカデミー賞協会特別賞(2011年)などを授与されている。また、早逝した父について綴った「父へのレクイエム」(1984年・読売ヒューマンドキュメンタリー賞優秀賞)を原作に後年つくられた映画が、『母べえ』(2008年/山田洋次監督)である。

社会習慣の違いなどもあり、難航したと言われている『デルス・ウザーラ』撮影秘話を中心に今回はお話しいただきます。

野上さんトークショー 9月17日(土)12:30「デルス・ウザーラ」上映前



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