●黒澤明監督の暗黒期…?DSCN1575s
『デルス・ウザーラ』のスタッフの(後ろに協力監督の川崎さんがいらっしゃいますが)数少ない生き残りです。『デルス』は黒澤さんの、いちばん苦しみもがいた作品です。黒澤さんは『赤ひげ』の辺りまでは輝かしい傑作がずっと続いた訳ですよ。その後『暴走機関車』は失敗して(注①)、そして彼がご存知のように『トラ・トラ・トラ!』で監督を交代というか、クビになったもんで(注②)、その後殆ど5年間空白の時代があって、『トラ~』(の降板の理由)が病気ということになっていたんですから、その名誉挽回のため『どですかでん』を撮りましたが、私はとってもいい作品だと思うんですが、商売的には非常に悪かったんですね。それのショックもあったんでしょうが、絶望的になって彼が自殺未遂までやったんですけれど、もう崖っぷちを一人で歩いているようなもんで、これがダメだったらもう、後はなかったですね。

●ソ連からの申し出
そこへソ連から「ウチで映画を撮らないか」という温かい言葉をもらって、それでもやっぱり怖かったんじゃないですかね、外国とやるのは。で、ソ連の方もアメリカが『トラ~』でひどい仕打ちをした後ですから、ウチんとこは違うぜってなもんでかなり対抗意識もあったんじゃないかと思うんですけど、ただ非常に条件が厳しかったですね。一例を言えば飛行機だってエコノミーで、私の隣で窮屈なアエロフロートに乗って…黒澤さんがエコノミーですからねぇ。それに黒澤さん以外の日本人スタッフは5人しか駄目だってことで、そこにいらっしゃる、協力監督の川崎さん、プロデューサーの松江(陽一)さん、それから私ともちろんキャメラの中井(朝一)さん、それと助監督、とにかく5人以上は許してくれなかったんですから、それでも黒澤さんはそれを呑まざるを得ないくらいに後に引けない状況だったんです。普通はなかなか決断できませんよね、初めての外国の、しかも大作で。もの凄い決断だったと思います。

●『デルス・ウザーラ』の映画化に向け動き出す
ソ連からの話で何か映画の題材として提案しろというときに、黒澤さんはロシア文学で育って、好きですからね、ドストエフスキーの「死の家の記録」とか、いろいろ案はあったんですよ。その中に探検家アルセーニエフのウスリー地方の探検記ってのがあって、「えー『デルス』を知ってるのか」と向こうも喜んだそうで、決まったんですね。デルスっていうのはロシア語ができないような案内人で、アルセーニエフとの友情ですね。黒澤さんは余程人間の優しさに飢えてたんじゃないか、ああいうのを撮りたかったんですよね。アルセーニエフ役のユーリー・サローミンさんは演技がよくて黒澤さんもすっかり気に入って、デルス役の、トゥワ(Tyva)って国の劇団の主宰のマクシム・ムンズクさんは、随分いろんな候補を見たけど結局ムンズクさんになって、キャスティングが良かったこともあります。それとキャメラの中井さんがほんとに素晴らしかったと思います。だって照明も連れてかなきゃ助手も連れてかない、一人ですからねぇ。で向こう行ってロシア語もちろんしゃべれないから、でも日本語で平気でみんなとしゃべって「そうだそうだうんうん」とやってたけど、とてもみんなからも好かれて、キャメラもよかったですしね。

●困難を極めたソ連での長期撮影
黒澤さんがいつまでも(『デルス』撮影中に)被っていた帽子を、ボロボロになったらまた同じ帽子を手に入れ被ってんのも、あの時のことを思やぁどんなことでも我慢できるよという言葉のように思います。『デルス・ウザーラ』を見ると自然にどんどん撮ってるみたいだけど、彼は画家でもあったから、画面は全部創ります。どのカットも全部、枝を持って来たりして手を入れてね。それを自ら先に立ってやると、ソ連のスタッフも一緒になって、日本での撮影と同じように全員で創るようになるんですよ。足掛け三年の撮影で最初はシベリアの八か月のロケでしたけれど、寒いときは零下三十何度で、通訳の人は拡声器を持ってしゃべっていると髭が凍り付いて離れないくらいだし、その寒さはやっぱり凄いですね。でもシベリアは夏が凄いんですよね。黒澤さんは夏に弱いこともあるんだけど、ほんとにマイってました。また食事が大変(笑)、軍隊が(撮影隊の)横についてるんですよね、で彼らが食事を作ってくれるんだけど、ひまわりの油がぎたぎた上に浮いているようなシチューとかね、黒澤さんは大体納豆が好きで(笑)、中井さんは冷奴とか湯豆腐ないのかなんてひとですからね(笑)食事はつらかったと思いますよ。食事の苦労と寒さの苦労と、そういう苦しみが黒澤さんにウォツカを呑ませたのもあります。もともとお酒の強い人だけど一日一本は普通でしたね(笑)。それで昼間の撮影を振り返り「どうしてああいう風に撮れなかったんだ。俺はこういう画が撮りたかったのに」なんて言ってね、泣くこともあるんですよ、つらかったんだと思うんですけどね。まあそのころあたしはあんまり優しくしてあげなかった(笑)ので、いい子いい子と言ってあげりゃよかったんだけど…。

DSCN1585s●虎のシーンには秘められた裏話が
『デルス・ウザーラ』は探検記だから動物なんかたくさん出るんだけど、その中でも虎の撮影は一番成功してます。でも黒澤さんが言うのにはサーカスの虎じゃ目が濁ってるっていうんですよ(笑)、人間に芸を仕込まれて堕落して。で野生の虎にしろってんで、向こうの製作のひとが野生の虎の子どもを捕まえたんです。黒澤さんが「バカ、子どもの虎じゃダメじゃないか」って言ったら、いや撮影のころにはちゃんと大きくなるって。で、ほんとに大きくなった(笑)。だけど野生だからあっち行けこっち行けったって駄目なんですよ。黒澤さんは地団駄踏んで怒るんです。「どうして出来ないんだろうね、あそこで一寸止まってこっちに来りゃいいんだよ」(笑)そんなこと言ったってね。なので野生の虎は木から木へひらひらって行くとこしか使ってない、あとはセットで結局サーカスの虎です(笑)。黒澤さんは俳優さんと動物の入れ込みをワンカットは作んないとつまんない、でもどうしても撮れない。やっぱりサーカスの虎はストップて言ったら止まるし使いやすいんですよ(笑)。まあご覧ください、よく出来てます。これはね一週間以上(撮影に)かかったな。

●違う言語で映画を造るということ
言葉が通じない中であれだけやったっていうのは大変だったと思います。私自身が考えるには外国で映画を造るってのはね、不可能ですよ。だから『トラ~』も結局成功しなかったと思いますけど、言葉の通じないところで映画を造るってことは、これは台湾のホウ・シャオシェン(候孝賢)も言ってましたが、自国で撮るのとは同じようには出来ない(注③)。だからよその国でやることは、言葉が通じないってことは無理だと。『トラ~』で黒澤監督は山本五十六を撮りたかったんですよ。自分とも重ね合わせて、と言っても(ほかの映画でも)いつもそうなんですけど。だけどアメリカは『史上最大の作戦』みたいな大活劇の予定だったんで始めっから食い違ってた。だからロシアとの場合は、『デルス・ウザーラ』を題材に選んだのはよかったと思います。ほんとに外国で言葉も通じないところで撮ること自体大変だけど、それでこれだけの傑作を造ったというのはやっぱり大変な才能だと思いますね、普通できませんね。

●黒澤監督の苦闘の跡を後世に伝えたい
 私はもうこうやってお話したり本を書いたりいろいろしてるのも、黒澤さんをもっと理解してあげればよかったと、よく言われるように“孝行したいときには親はなし”みたいな感じで申し訳ないと思うこともあって、彼がどんなに大変だったかということを伝えておきたいという気持ちもあって、この『デルス』についての本を出したい、私の最後の仕事で、何とかして黒澤さんの苦労を伝えときたいと思っていま原稿を書いてんですけど、果たして出るかどうか分かりませんができれば来年に出版したい。その時はぜひ見てください。ロシアのはワシリフさんと一緒に出したいと思ってます。有難うございました。


注①    85年にN・ミハルコフの実兄A・コンチャロフスキーの監督で米で映画化
注②    70年にR・フライシャー、舛田利雄、深作欣二の共同監督で完成
注③    候孝賢は03年に日本で『珈琲時光』を、07年に仏で『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』を監督