その1からつづく


●レーニンと古儀式派DSCN1711

レーニン主義というのを私自身は別な角度から見るようになっています。レーニンは1/4はユダヤ系、1/8がカルミックという我々そっくりなアジア人、そしてドイツ系もはいっていますがロシア人。この人はボルガの革命家です。
ロ シア帝国とソ連帝国という二つの帝国が終わって初めてよく見えたことのひとつに、宗教、とくに古儀式派という異端の潮流があります。実はロシア帝国という 正教国家とは、1688年の宗教改革で生まれた改革派の潮流がウクライナと連合して作った国家です。1721年にロシア帝国が作られ、ピョートルという大 男がオランダに行って技術を学んでペテルブルクに都を作り、バルチック艦隊を作り、南に下がって露土戦争をやった。これがロシア帝国です。
それ以 前の古いロシアの人々は別の儀式で信仰を維持してきた。モスクワからシベリア・ウラルあたりに、ロシア正教会の中で一種原理派的な人たちがいたのですが、 1680年前後の宗教紛争の中で追放される。古儀式派とかドストエフスキーの小説の主人公の呼称でもありますがラスコリニコフという人たち。反ロシア帝国 の反戦運動までやる人たち、あるいはトルストイと組んで帝政ロシアの反軍運動をやった人たち。なぜこの流れの人が反軍運動をやったかというと単に平和主義 者だったからではない。彼らから見るとロシア帝国は宗教的な裏切り者、サンクトペテルブルグは反キリストの街である。自分たちの本当の信仰はモスクワであ る。モスクワは第3のローマだ、という考え方を持つ非常に原理主義の流れが二百数十年間生き残り続けます。これが20世紀に再生したのです。日露戦争での 帝国ロシアの動揺、そしてロシア革命です。ロシア革命もこの流れを見ないとわからない。
この人たちがなぜ革命で帝政ロシアを倒したか、そして先ほ どお話したスターリングラード辺りのコサックの人たちも、基本的にこの流れです。日露戦争で帝国は揺らぐ。なぜか。満州で帝政ロシアに動員されたのが基本 的にこの兵士たち、農民たちであります。帝国のために戦いたくない、やる気はない。宗教帝国である帝政ロシアは、イスラム教徒も仏教徒までちゃんと葬って も、古儀式派の兵士が死んでも宗教儀式なしに、満州にほっといた。これに怒ったのが日露戦争での民主化運動を担った人、つまりモスクワの古儀式派大資本家 や労働者、実はこの人たちは真面目な人、一種のプロテスタントです。真面目過ぎる、厳格である、信仰のためだったら死をも厭わない。こういう人たちであり ます。同時に、アンダーグラウンドでお金をたくさん持っている。ネットワークを持っているわけです。正教会のややモダニスト的な解釈の聖書ではなく、古い 書体の古儀式派の宗教書を、彼らはアンダーグラウンドで印刷していた。
レーニンのボリシェビキを助けたのも彼らです。ボルシェビキ党が自分たちの アンダーグラウンドの出版局を作ったのではなく、この古儀式派の情報ルートにいわば乗る形で「イスクラ」という新聞を作る。レーニンの「イスクラ」にお金 を出したのがモスクワ芸術座のオーナーでもある繊維工業の資本家ザッバ・モロゾフ。モスクワはこの人たちの都です。いまでもトレチャコフ美術館に行くとも この人たちの信仰を示すスリコフのモロゾフ公爵夫人の有名な絵があります。二本指のシンボリズムがよく見るとあります。ちなみに彼の子孫がソ連国歌に詞を つけ、それだけでなくロシアになったときにも詞を書いたセルゲイ・ミハルコフ。その息子は『12』『戦場のナージャ』のニキータ・ミハルコフ監督です。モ スクワをそういう形で見ると大変面白い。例えばプロレタリア作家のゴーリキーも昔この人たちのためにイコン画を描いたわけですが、彼が晩年すんだリャブシ ンスキーの館も古儀式派の資本家だった。ゴーリキーはその古儀式派の祈祷室を保存するのです。またモロゾフが彼らと組んだモスクワ芸術座というのは簡単に 言うとモスクワの反帝国的拠点でした。ペトログラードの帝国に対するもうひとつの隠れたるロシアでした。二都物語ですが、革命モスクワはこうして伝統モス クワと繋がる。
モスクワ攻防戦は6月22日に始まり、9月にはクレムリンは陥落寸前だったわけです。ところが極東のシベリヤ軍団が、ゾルゲ情報で 日本軍が対米戦争に向かうという情報によってモスクワ防衛戦に参加、さらに冬将軍が来て、41年の冬はもの凄い寒かったわけですけども、ここでシベリヤ軍 団は『第3のローマ』を膨大な犠牲を伴いながら守りきった。やはり戦う兵士がいなくては戦えない、
こういう風にみるとモスクワ防衛や祖国を守るに もの凄い強い軍隊なのに、対外戦争でソ連が意外に脆いかわからないだろうか。あるいはフィンランドで負け、そしてこのウクライナでも苦戦する。後の時代で すが、1979年からはアフガニスタンで負ける。これが何となくお分かりになるんではないかと思います。ロシア人の中のパトリオティズム(愛国主義)はイ デオロギーのために、世界のプロレタリア革命のために死んだわけではなく、お母さんのため、家族・恋人や自分を生んでくれた人たちのために死をもいとわな い。

●ソヴィエトとは何か
スターリンの政治局員や軍人は、ユダヤ系の人たちを除くとかなり多くが古儀式派の流れにあった人たちで はないかと今考えています。例えばワシレスキー将軍です。この話は映画「大祖国戦争」には全然出てきませんが、1945年8月には170万の軍隊を満州の 野に展開します。ワシレスキー元帥のお父さんはイワノボ・ボズネセンスクというモスクワ郊外の古儀式派地域の聖歌隊の隊長さんです。イワノボ・ボズネセン スクは、1905年に世界で最初にソヴィエトという組織が出来た町です。イワノボは赤軍を作ったフルンゼが出てきた都市でもあります。「ソヴィエトの兵士 は強い」と書かれた記録があります。
ソヴィエトって何ろうか。ソ連時代に歴史家は誰も説明できなかった。私の今の説は、私の説がまだ学会で受け入 れられるというわけではありませんが、古儀式派と関係がある。実は教会を持つことを300年間くらい禁止された人たちが、農村で、あるいは自分たちの作っ た小工場で密かな宗教儀式を持っていました。これに二つ流れがあって、聖職者はやっぱり必要だという派と、聖職者は要らないというグループと。後者は30 から50くらいに分かれるんですけれど、このイワノボ・ボズネセンスクというのは儀式は必要だというグループ。イワノボ・ボズネセンスクは実はこの古儀式 派の拠点だった。工場を作り、その中で宗教儀式をやっていた。そして1905年で帝国が日露戦争もあり、動揺した結果、民主化運動を起こし彼らはようやく 教会と政治とを分離することができた。複数政党制ができた。あるいは議会ごときものができた。そしてその運動の一番の中心人物たちは古儀式派資本、モスク ワの古儀式派資本の代表者たち、豊かな人で当時政治力がありました。ですから大祖国戦争で、なぜモスクワをあっという間に守ったのか、しかしその後ウクラ イナ解放までに時間がかかったのかというと、私はソヴィエトとソ連史を繋ぐネットワークを指摘したいと思います。

 ●革命の背景
どうして スターリングラードでロシア兵士は命を投げたのか。スターリンのためではない、ボルガ、とくにコサックの流れには古儀式派的なものが脈々としてあります。 実はロシア革命が起きるひとつの理由もそういう古いロシアが関係します。ロシア革命が起きた時レーニン政府はウクライナといったん切り離すわけですね、そ してソ連が崩壊するっていうのもウクライナとロシアが協議離婚してソ連というのがなくなるわけです。これをやったエリツィンも祖父はウラルの古儀式派で す。ウクライナは半分カトリックの国、逆にいうと帝政ロシアは半分カトリックのウクライナと、古儀式派的なモスクワをくっつけて、南にあるオスマン・トル コという国のキリスト教徒の奪還のために作った。歴史を動かす力というのは、普通の人たちが自分の父祖の地を守り、そして戦うというところにあるのではな いか、と思います。
レーニンが作った無神論国家で、グルジアで神学校にいたことがあるスターリンが正教会を認めたのが1943年。コミンテルンも 解散したのは1943年。コミンテルンは解散したけども、ブルガリア人のディミトフはソ連共産党国際委員会として、野坂参三とかいろんな人とずっと会うわ けですね。

●冷戦からソ連崩壊へ
あとひとつ。大祖国戦争末期に戦争の革命が起きます。核兵器の出現です。ところがソ連に実はウラ ンはなかったのです。まだ発見されていなかった。ところが170万とか500万とかの軍隊より核兵器は力があった。スターリンは当時ソ連軍が占領した地域 で必死にウランを探し、それのあった地域、ブルガリア、チェコ・スロヴァキア、東ドイツ、そして北朝鮮で見つけました。そのことを考えると冷戦という次の 戦争のなかでどうして東欧(や朝鮮半島)が分断され、40数年後にゴルバチョフの手で解放されたのか、そういったこともお分かり頂けるのではないかと思い ます。

(了)