100年のロシアPartⅡ 旧ソ連映画特集

9月17日(土)~25日(日)期間延長! アップリンクにて開催!
協力:ロシア文化フェスティバル/ロシア映画社 企画:パンドラ

トークショー

トークレポート 下斗米伸夫さん(9/21) その2

その1からつづく


●レーニンと古儀式派DSCN1711

レーニン主義というのを私自身は別な角度から見るようになっています。レーニンは1/4はユダヤ系、1/8がカルミックという我々そっくりなアジア人、そしてドイツ系もはいっていますがロシア人。この人はボルガの革命家です。
ロ シア帝国とソ連帝国という二つの帝国が終わって初めてよく見えたことのひとつに、宗教、とくに古儀式派という異端の潮流があります。実はロシア帝国という 正教国家とは、1688年の宗教改革で生まれた改革派の潮流がウクライナと連合して作った国家です。1721年にロシア帝国が作られ、ピョートルという大 男がオランダに行って技術を学んでペテルブルクに都を作り、バルチック艦隊を作り、南に下がって露土戦争をやった。これがロシア帝国です。
それ以 前の古いロシアの人々は別の儀式で信仰を維持してきた。モスクワからシベリア・ウラルあたりに、ロシア正教会の中で一種原理派的な人たちがいたのですが、 1680年前後の宗教紛争の中で追放される。古儀式派とかドストエフスキーの小説の主人公の呼称でもありますがラスコリニコフという人たち。反ロシア帝国 の反戦運動までやる人たち、あるいはトルストイと組んで帝政ロシアの反軍運動をやった人たち。なぜこの流れの人が反軍運動をやったかというと単に平和主義 者だったからではない。彼らから見るとロシア帝国は宗教的な裏切り者、サンクトペテルブルグは反キリストの街である。自分たちの本当の信仰はモスクワであ る。モスクワは第3のローマだ、という考え方を持つ非常に原理主義の流れが二百数十年間生き残り続けます。これが20世紀に再生したのです。日露戦争での 帝国ロシアの動揺、そしてロシア革命です。ロシア革命もこの流れを見ないとわからない。
この人たちがなぜ革命で帝政ロシアを倒したか、そして先ほ どお話したスターリングラード辺りのコサックの人たちも、基本的にこの流れです。日露戦争で帝国は揺らぐ。なぜか。満州で帝政ロシアに動員されたのが基本 的にこの兵士たち、農民たちであります。帝国のために戦いたくない、やる気はない。宗教帝国である帝政ロシアは、イスラム教徒も仏教徒までちゃんと葬って も、古儀式派の兵士が死んでも宗教儀式なしに、満州にほっといた。これに怒ったのが日露戦争での民主化運動を担った人、つまりモスクワの古儀式派大資本家 や労働者、実はこの人たちは真面目な人、一種のプロテスタントです。真面目過ぎる、厳格である、信仰のためだったら死をも厭わない。こういう人たちであり ます。同時に、アンダーグラウンドでお金をたくさん持っている。ネットワークを持っているわけです。正教会のややモダニスト的な解釈の聖書ではなく、古い 書体の古儀式派の宗教書を、彼らはアンダーグラウンドで印刷していた。
レーニンのボリシェビキを助けたのも彼らです。ボルシェビキ党が自分たちの アンダーグラウンドの出版局を作ったのではなく、この古儀式派の情報ルートにいわば乗る形で「イスクラ」という新聞を作る。レーニンの「イスクラ」にお金 を出したのがモスクワ芸術座のオーナーでもある繊維工業の資本家ザッバ・モロゾフ。モスクワはこの人たちの都です。いまでもトレチャコフ美術館に行くとも この人たちの信仰を示すスリコフのモロゾフ公爵夫人の有名な絵があります。二本指のシンボリズムがよく見るとあります。ちなみに彼の子孫がソ連国歌に詞を つけ、それだけでなくロシアになったときにも詞を書いたセルゲイ・ミハルコフ。その息子は『12』『戦場のナージャ』のニキータ・ミハルコフ監督です。モ スクワをそういう形で見ると大変面白い。例えばプロレタリア作家のゴーリキーも昔この人たちのためにイコン画を描いたわけですが、彼が晩年すんだリャブシ ンスキーの館も古儀式派の資本家だった。ゴーリキーはその古儀式派の祈祷室を保存するのです。またモロゾフが彼らと組んだモスクワ芸術座というのは簡単に 言うとモスクワの反帝国的拠点でした。ペトログラードの帝国に対するもうひとつの隠れたるロシアでした。二都物語ですが、革命モスクワはこうして伝統モス クワと繋がる。
モスクワ攻防戦は6月22日に始まり、9月にはクレムリンは陥落寸前だったわけです。ところが極東のシベリヤ軍団が、ゾルゲ情報で 日本軍が対米戦争に向かうという情報によってモスクワ防衛戦に参加、さらに冬将軍が来て、41年の冬はもの凄い寒かったわけですけども、ここでシベリヤ軍 団は『第3のローマ』を膨大な犠牲を伴いながら守りきった。やはり戦う兵士がいなくては戦えない、
こういう風にみるとモスクワ防衛や祖国を守るに もの凄い強い軍隊なのに、対外戦争でソ連が意外に脆いかわからないだろうか。あるいはフィンランドで負け、そしてこのウクライナでも苦戦する。後の時代で すが、1979年からはアフガニスタンで負ける。これが何となくお分かりになるんではないかと思います。ロシア人の中のパトリオティズム(愛国主義)はイ デオロギーのために、世界のプロレタリア革命のために死んだわけではなく、お母さんのため、家族・恋人や自分を生んでくれた人たちのために死をもいとわな い。

●ソヴィエトとは何か
スターリンの政治局員や軍人は、ユダヤ系の人たちを除くとかなり多くが古儀式派の流れにあった人たちで はないかと今考えています。例えばワシレスキー将軍です。この話は映画「大祖国戦争」には全然出てきませんが、1945年8月には170万の軍隊を満州の 野に展開します。ワシレスキー元帥のお父さんはイワノボ・ボズネセンスクというモスクワ郊外の古儀式派地域の聖歌隊の隊長さんです。イワノボ・ボズネセン スクは、1905年に世界で最初にソヴィエトという組織が出来た町です。イワノボは赤軍を作ったフルンゼが出てきた都市でもあります。「ソヴィエトの兵士 は強い」と書かれた記録があります。
ソヴィエトって何ろうか。ソ連時代に歴史家は誰も説明できなかった。私の今の説は、私の説がまだ学会で受け入 れられるというわけではありませんが、古儀式派と関係がある。実は教会を持つことを300年間くらい禁止された人たちが、農村で、あるいは自分たちの作っ た小工場で密かな宗教儀式を持っていました。これに二つ流れがあって、聖職者はやっぱり必要だという派と、聖職者は要らないというグループと。後者は30 から50くらいに分かれるんですけれど、このイワノボ・ボズネセンスクというのは儀式は必要だというグループ。イワノボ・ボズネセンスクは実はこの古儀式 派の拠点だった。工場を作り、その中で宗教儀式をやっていた。そして1905年で帝国が日露戦争もあり、動揺した結果、民主化運動を起こし彼らはようやく 教会と政治とを分離することができた。複数政党制ができた。あるいは議会ごときものができた。そしてその運動の一番の中心人物たちは古儀式派資本、モスク ワの古儀式派資本の代表者たち、豊かな人で当時政治力がありました。ですから大祖国戦争で、なぜモスクワをあっという間に守ったのか、しかしその後ウクラ イナ解放までに時間がかかったのかというと、私はソヴィエトとソ連史を繋ぐネットワークを指摘したいと思います。

 ●革命の背景
どうして スターリングラードでロシア兵士は命を投げたのか。スターリンのためではない、ボルガ、とくにコサックの流れには古儀式派的なものが脈々としてあります。 実はロシア革命が起きるひとつの理由もそういう古いロシアが関係します。ロシア革命が起きた時レーニン政府はウクライナといったん切り離すわけですね、そ してソ連が崩壊するっていうのもウクライナとロシアが協議離婚してソ連というのがなくなるわけです。これをやったエリツィンも祖父はウラルの古儀式派で す。ウクライナは半分カトリックの国、逆にいうと帝政ロシアは半分カトリックのウクライナと、古儀式派的なモスクワをくっつけて、南にあるオスマン・トル コという国のキリスト教徒の奪還のために作った。歴史を動かす力というのは、普通の人たちが自分の父祖の地を守り、そして戦うというところにあるのではな いか、と思います。
レーニンが作った無神論国家で、グルジアで神学校にいたことがあるスターリンが正教会を認めたのが1943年。コミンテルンも 解散したのは1943年。コミンテルンは解散したけども、ブルガリア人のディミトフはソ連共産党国際委員会として、野坂参三とかいろんな人とずっと会うわ けですね。

●冷戦からソ連崩壊へ
あとひとつ。大祖国戦争末期に戦争の革命が起きます。核兵器の出現です。ところがソ連に実はウラ ンはなかったのです。まだ発見されていなかった。ところが170万とか500万とかの軍隊より核兵器は力があった。スターリンは当時ソ連軍が占領した地域 で必死にウランを探し、それのあった地域、ブルガリア、チェコ・スロヴァキア、東ドイツ、そして北朝鮮で見つけました。そのことを考えると冷戦という次の 戦争のなかでどうして東欧(や朝鮮半島)が分断され、40数年後にゴルバチョフの手で解放されたのか、そういったこともお分かり頂けるのではないかと思い ます。

(了)

トークレポート 下斗米伸夫さん(9/21) その1

9月21日に行われた下斗米伸夫さんのトーク概要を掲載したします(一部を加筆修正)
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●『大祖国戦争』雑感DSCN1672
先ずこの映画のタイトル、『大祖国戦争』です。『第二次世界大戦』ではない、この差異
に先ずご注目いただきたいと思います。この映画は見事な実写に基づくプロパガンダ映画です。ソ連に対するヒトラーの攻撃に始まり、1945年5月9日の赤の広場での有名なパレードで終わっている。つまり今ロシア大統領メドベージェフ氏が胡錦濤主席と確認した第二次世界大戦終結記念日の1945年9月2日ではない。またこの映画のシーンには伝説的なジューコフ将軍が白馬に乗って勝利を祝うシーンもなければ、スターリンが出ているわけでもない。大祖国戦争というキーワード、これはある意味でロシア人の戦争観を表すものです。

●スターリンの戦争
第二次大戦は周知のように1939年8月23日スターリンがナチス・ドイツと不可侵条約を結んで9月から始まる。ポーランドを分割し、バルト諸国を併合する傍ら赤軍がフィンランドに攻め入って1939-40年に大敗をする。「冬戦争」といいますが、フィンランドに攻め入ったソ連軍はフィンランド軍の猛烈な抵抗にあう。ソ連軍の大敗の程度は分からない。フィンランド軍で死んだ人は2万5千人から5万人くらい、ソ連側は公式的には13万から20万というのがなくなったと発表されています。フルシチョフはある時「100万人のソ連軍が死んだ」と口走ったことがあります。これは過ぎかと思うのですが、理由のないことではありません。実は中央アジアのタジキスタンの兵士を冬のフィンランドに連れていった。スキー部隊もなかった。そういうことを1939-40年にやって、逆に世界中がソ連を批判、1935年にくわわった国際連盟から排除される。これが第二次世界大戦の前半で、そして後半が1941年6月からの独ソ戦、これを大祖国戦争というわけです。

●ドイツ軍のモスクワ侵攻
不可侵条約があったドイツが1941年6月22日、ちょうど夏至の日、作家ボイノビッチ『最も短い夜』といった日ですが、裏切って戦争を開始する。モスクワのシェレメチェボ空港から一寸入ったところにあるヒムキやモスクワ大学近くまでナチス・ドイツがやってきた。これにスターリンはショックを受けて一週間ほど寝込んでしまった。スターリンが開戦直後全然戦争指導ができなかったというのは間違いで、おそらく最初の数日間はまだクレムリンに踏みとどまった。しかし赤軍が大敗し、次々に何百万という単位で投降してゆく、そのプロセスにスターリンがショックを受けて寝込んでしまったのは事実です。
それから6月末政府の最高軍事指導部である国家防衛委員会を創設するということを伝えに、モロトフやミコヤンがスターリンの別荘に行ったとき、スターリンは自分を逮捕に来たと勘違いした、とミコヤンは回想録で書いております。
スターリンと将軍たちと民衆との一体というこの映画のナレーションは勿論フィクション・宣伝であります。
 たとえばフルシチョフは、この戦争の時スターリングラード攻防戦の政治委員として、指導していました。天才的な戦争指導者と宣伝されていたスターリンが、何の防御もせずにヒトラーの攻撃を易々と許し、初戦で大敗したという暴露を、有名なスターリン批判の第20回党大会(1956年)でやった。例えば共産党幹部たちが粛清されたとかいろいろ言うのですが。この批判に恐らくソ連国民、あるいは世界中で一番びっくりしたのは、毛沢東や朱徳など中国共産党でしょう。20回党大会に出席して、スターリン批判をフルシチョフが始めるというのに大変ショックを受けるわけですね。
 この映画で交響曲レニングラードが出てきます。作曲家ショスタコーヴィチの回想を書いたとされるボルコフによると、1937年にスターリンによって粛清されたソ連の元帥トハチェフスキーに捧げられたという説がある。歴史にifはないのですが、もしトハチェフスキー等の赤軍幹部が生きていたら、スターリンは、あるいはヒトラーはこういう戦争をやっただろうか、という話があるわけであります。あるいは今この映画の中でたくさんの死体・死者をみたわけですが、実はこの十年前に、1932年から33年にかけてスターリンは国を工業国家に仕立てようとして、それまでに始めていた工業化5か年計画を3か年に縮め、無理矢理工業化を加速した。農民を犠牲にしてトラクターを作った。トラクターは一寸仕様を変えると戦車工場になる。その犠牲者の出たウクライナやロシア南部地域は戦時中スターリンに批判的であったとしても不思議でっはない。そこにナチが侵入してきた。
独ソ戦は簡単に言うと、ドイツの誇るルール炭田・クルップ製鉄所と、ソ連が誇ったマグニトゴルスクス製鉄やクズネツ・ドンバス炭田との体力勝負だったわけです。実は18世紀のロシアには世界最大級の製鉄所がウラルにあったわけです。ロシアは決して貧しい農民国ではなかったが、スターリンの工業化は、一方で農民を敵に回しながら、他方で巨大な軍需工廠作り上げた。

●大祖国とは?
この映画の言う大祖国、祖国とは何か。実はこの映画の中にヒントがあります。ボルガ、つまり母なるボルガを守って、そしてドニエプルを越えて、ベルリンまで反撃するというキーワード。このドニエプル川と、キエフですね、それからボルガ。ボルガ川はモスクワの北を通って今のタタール共和国あたりまでです。ルーシとはもともとボルガとドニエプル川に挟まれた地域をいった。ボルガにはさらにタタールもあった。ロシアの将軍たちの多くはタタール人です。クトゥゾフだとかナポレオンをやっつけたのはタタール人。今でもロシア軍の将校にはかなりタタール人がいます。スターリンは戦争中モスクワを離れませんが、首都を臨時にクイブシェフと言った町に置きます。クイブシェフは今サマーラと言い、イタリアの有名な自動車工場があります。その南にあるのが母なるボルガのスターリングラード。モスクワ、レニングラード、スターリングラード、母なるボルガ、そしてドニエプル川、この地域を守る戦いが大祖国を守る戦いです。ロシア兵たちはこのためにだったら命懸けです。後年、大祖国戦争への評価が変わり、フルシチョフ時代には死者が千万単位で言われたことがあります。赤軍の名簿によると戦死者の数は886万人くらいですが、しかしブレジネフ時代には2,000万人死んだ、そしてゴルバチョフがドイツ統一を認めるころに2,700万人が死んだと言われるようになりました。恐らく本当のことは誰にもわからないであろうと思います。

●スターリンの過ち
スターリンはその十年前、東に満州国ができ、西に1933年ヒトラーが出てきて両方に挟み撃ちにされるという恐怖から、ウクライナなどで農民を犠牲にしても工業化を強行します。国交がなかったアメリカと組むためにジョージ・ケナンだとかそういう人を通して、民主党のルーズベルトと手を組み日本を牽制させる。ヒトラー=ドイツの台頭に対しては英仏と組む。国際連盟に入り、統一戦線戦術でソフト路線を出す。
しかしスターリンの犯した過ちは、映画に見えますが第二次世界大戦のいろんな局面に現われている。例えばドイツ軍がウクライナに入ってきた時、ウクライナ農民はそれまでのスターリンの飢餓で700万人程度死んだこともあってナチを解放者と歓迎します。もっともヒトラーのスラブ人劣等民族論からウクライナ人の態度はすぐに変わりますが。反攻計画がスターリングラードから始まる、しかしウクライナのキエフは44年まで解放されない。この背景に何があるかというと、ウクライナ農民の複雑な感情がある。農民が餓死した経験は消えないし、総力戦では民衆の態度が鍵になる。ここはコサックの村です。コサックというのはボルガとウクライナの間に暮らしていました。
スターリンのこの工業化と飢饉に1933~34年に赤軍はかなり動揺するわけです。スターリンというグルジア人を指導者にするのはまずい、という地方幹部の一部がセルゲイ・キーロフというロシア人を代わりの書記長にしようと、1934年の第17回党大会で現れる。これは歴史的に証明されています。
スターリンは1936~37年のスペイン内戦でも、赤軍の十月革命かなんかで最もラディカルにやった革命家や、ゾルゲを東京に派遣したベルジンなどを送り込んだ末に粛清した。またこの戦争では武器代金のかわりに共和国政府の金をとったということを英国の歴史家のビーヴァーが「代理世界戦争」と言っております。そのあまりにも稚拙で暴力的なやり方にイギリスの指導部は驚いて、スターリンの外交政策に批判的になり、そのこともあって宥和政策で親独的に傾いた。

その2へつづく

トークレポート 植草信和さん(9/18)

ご紹介いただいた植草です。これから「メキシコ万歳」をご覧になっていただくのですが、その前に少しお話しするようにと主催者から言われていますのでお付き合いいただければと思います。とはいえ、名作を鑑賞する前につまらないことを聞かされる不愉快さは充分分かっているので「メキシコ万歳」がどのようにして生まれたのかを手短に話して早々に切り上げるつもりですので、少しお付き合いください。

●『メキシコ万歳』悲願の完成が実現するまで植草さん2 DSCN1626
エイゼンシュテイン研究家であるアメリカ人のジェイ・レイダが作った「エイゼンシュテインのメキシコ・プラン」というフィルムは「メキシコ万歳」に関する最も重要な映像資料といわれています。これを見ている日本人はロシア映画研究家の山田和夫さんだけだと思いますが、彼はそれを見たときのことをこんなふうに書いています。

「ジェイ・レイダは1955年、ニューヨーク近代美術館に保管されていた『メキシコ万歳』のネガフィルム21万9千フィートを発見した」5,400フィートが約1時間ですから40時間くらいのフィルムになります。
「レイダはそのネガフィルムを綿密に検討し、うち2万5千フィートを使って、撮影された順にそのまま繋ぐことに成功、長編研究映画『エイゼンシュテインのメキシコ・プラン』を作り上げた。
私は1963年、モスクワ映画祭が終わってからレニングラードを訪れたとき、浦山桐郎監督とともに幸運にもこのフィルムの一部を見せてもらった。一部といってもちょうど半分にあたる二時間分であったが、ひとつひとつのシーンがリテイクされたまま繰り返され、かえって製作現場の息吹を感じさせられて飽きることがなかったし、ショットの美しさ、壮大さはいうまでもない。
この研究映画もひとつの促進剤となって『メキシコ万歳』完成の機運が盛り上がった。そして国立の映画保存所である「ゴスフィルムフォンド」とニューヨーク近代美術館の協約にもとづき、1973年、ついに『メキシコ万歳』のネガフィルム約12万フィートがモスクに戻った。
現存する当時のスタッフはもはやアレクサンドロフひとり。彼も病気がちである。一日も早く、エイゼンシュテイン終生の痛恨となった『メキシコ万歳』が、可能な限りオリジナル構想に近く完成されることを待望したいものである」

この文章は、山田さんが監修したキネマ旬報の「エイゼンシュテイン全集」全10巻の4巻目に収録されたものです。余談ですけれどもこの「エイゼンシュテイン全集」は私が入社した1970年から刊行が始まって、駆けだし編集者時代に下落合にあった山田さんの自宅に原稿をいただきにあがりました。
この文章でおわかりのようにこれが書かれた1976年には、「メキシコ万歳」はまだこの世に存在していません。映画が完成したのは1979年ですから、この文章が書かれた3年後です。そしてこの文章の中に出てくるアレクサンドロフという人物は「メキシコ万歳」の助監督でありシナリオ共作者で、「メキシコ万歳」は彼の超人的な努力とねばり強さによって完成しました。

●映画の都ハリウッドに迎えられるも…
エイゼンシュテインがメキシコで撮影を始めたのが1931年10月ですから、完成まで48年の歳月を要したことになり、これは映画作りをめぐる壮絶かつ壮大なドラマだと思います。
ではその48年間にどんなことが起こったのか、資料を基にお話ししてみたいと思います。

映画史に残る不朽の名作とされる「戦艦ポチョムキン」が作られたのは1925年、大正14年です。
この一作によってセルゲイ・エイゼンシュテインの名は世界中に轟き、世界最大の映画の都・ハリウッドに招かれました。1929年、エイゼンシュテイン31歳のときです。
当初は「パラマウント映画」と契約が結ばれ、シオドア・ドライサー原作の「アメリカの悲劇」のシナリオを完成させたのです。それは貧しい青年が犯罪を犯してのしあがっていくというお話ですが、エイゼンシュテインが書いたシナリオではその青年は無罪になります。その強烈な階級的テーマは資本家を怯えさせ、企画は挫折します。ハリウッド方式とソビエト方式の映画の作り方、考え方があまりにかけ離れていたことも原因だったと思います。
「アメリカの悲劇」はのちにジョージ・スティーブンス監督で映画化され「陽のあたる場所」というタイトルで公開されているのでご覧になった方も多いのではないかと思います。

●悲劇の始まり=映画作りのシステムの違い
失意のエイゼンシュテインに助け舟を出したのがメキシコの画家ディエゴ・リヴェラでした。フリーダ・カーロのパートナーとしても知られている著名な画家ですが、彼はエイゼンシュテインにメキシコで映画を撮るように勧めました。
エイゼンシュテインはハリウッドで友人になったチャールズ・チャップリンに相談したところチャップリンは賛成し、当時資本主義批判の小説で売り出していた作家アブトン・シンクレアをスポンサーにすることを勧めます。
シンクレアはこの話にのって製作資金を集めつつ「メキシコ映画トラスト」という、一種のファンドだと思うんですけど、設立して、エイゼンシュテインはその契約書にサインします。
それがどんな契約書だったのか、見てみましょう。

「この予備的な合意は、モスクワのセルゲイ・M・エイゼンシュテインとカリフォルニアのメアリー・クレイグ・シンクレアとのあいだにおこなわれる」の一文ではじまります。
メアリーとは「メキシコ映画トラスト」を設立した作家アブトン・シンクレアの夫人です。

条項
① エイゼンシュテインはメキシコに行き、仮題「メキシコ映画」と題される映画を監督したいと思っているがゆえに、またシンクレア夫人はその映画に資金を出し所有したいと思っているがゆえに、エイゼンシュテインはメキシコ・シティに行き3~4ヵ月間、その能力の最善をつくして献身的に働くことに同意すること。

条項
② エイゼンシュテインは彼がメキシコで監督した映画のすべて、すべてのネガティブ・フィルムとポジティブ・プリント、そしてすべてのストーリーとアイディアはシンクレア夫人の財産であるとこ、また上述の材料を彼女の欲するいかなる形でも、いかなる値段でも市場で売買することができる。そして本作の全世界に対する権利について彼女が単一の所有者であり、彼女の名で本作の著作権を自由に処理できることに合意する。

条項
③ エイゼンシュテインがそれらの約束を遂行することを信頼して、メアリー・クレイグ・シンクレアは2万5千ドルの資金を作ること、その金額がリクープされたのち販売、賃貸によって受領する額全体の10%をエイゼンシュテインに支払うことに同意する。

もう少しあるのですが、これが契約書の骨子です。
この契約書へのサインが「メキシコ万歳」の悲劇の始まりになるのですが、資本主義映画界の実務的な習慣に不慣れだったとはいえ、エイゼンシュテインはかなり無造作に全権をシンクレアに委ねていることが分かります。そして「編集権」も当然自分にあると信じきっていましたが、この文脈では撮影済みフィルムの権利は出資者のものとしか思えません。
このへんは、昨日(9月17日)野上照代さんもお話になっていましたけれども、黒澤明監督がアメリカ資本で作ろうとして失敗して自殺未遂にまで追い込まれた「トラ・トラ・トラ!」のケースと大変よく似ています。黒澤監督も契約書というものにまったく興味をもちませんでした。偉大な芸術家の宿命というものでしょうか。

植草さん1 DSCN1625●新天地メキシコに魅せられる
エイゼンシュテインは最初、メキシコの歴史と自然と人間を紹介する「旅行記」的映画を考えていたらしく、助監督のアレクサンドルフ、カメラマンのエドアルド・ティッセの三人は1930年12月、メキシコに入り、ロケハンとシナリオ作りに着手します。

ただ先述の山田さんが後日、キネマ旬報に「『メキシコ万歳』その歴史と再生の意味」という原稿を寄稿したのですが、それを読むとエイゼンシュテインは当初の「旅行記」的映画からメキシコそのものを描きたいという欲望が次第に強くなっていったようです。ちょっと読んでみましょう。

「その自然と人間と文化の魅力がエイゼンシュテインを夢中にさせ、彼の構想をどんどん膨らませていく。特に彼を狂喜させたのは、二千年の歴史のさまざまな発展段階が空間的・地理的に共存しているという事実だった。(中略)こうしてエイゼンシュテインはカメラとともに、空間的・地理的に移動するだけで、メキシコ二千年の時間と歴史を描く壮大かつ野心的な『メキシコ万歳』の構想が固まる」

という風に山田さんはお書きになってますけれど、これを読みますとエイゼンシュテインは最初は単なる興味だけだったものが、メキシコそのものに魅せられていったということがよくわかると思います。

●撮影中止、そしてプロジェクトの頓挫
言葉も通じない不慣れな土地で幾多の困難を抱えて、しかもたった3人だけで撮影は進められましたが、やがて資金とフィルムが底をついたとき、シンクレアによって撮影中止命令が下されました。
エイゼンシュテインは23万4千フィートのネガフィルムを残してニューヨーク経由でモスクワに帰ります。「次の便でネガを送る」というシンクレアの言葉を信じていたので、計画のすべては撮影できなかったけれども、それほどの挫折感はなかったと思います。なぜなら、エイゼンシュテインはモスクワに帰ってすぐ、撮影済みフィルムを想定したシナリオの第二稿を執筆しているからです。
しかしネガフィルムが届いたのはそれから40年後の1972年、エイゼンシュテインが死んで24年が経っていました。
シンクレアは約束を守らず、製作費回収のためネガを売り出していたのだから届かないのは当然ですが、最高傑作を作ろうとしてネガの到着を待ち望んでいたエイゼンシュテインの気持ちを思うと言葉がありません。

エイゼンシュテインが帰国した翌年の1933年、昭和8年、「メキシコの嵐」という映画が公開されるという衝撃的な事件がおきます。シンクレアが製作費回収のために売り出したネガフィルムを買い取った映画業者が、エイゼンシュテインの名前を勝手に使って編集した映画ですが、この他にも「死の日」と「陽のあたるとき」という映画も同じような意図で作られました。

これを知ったエイゼンシュテインは、「『メキシコ万歳』の撮影済みフィルムは周知のとおり私から奪われてしまった。この映画に投資したグループがモスクワの私にフィルムを送ることを拒否したからである。後になって、私が編集したものではない、そして非常にいまわしく編集された、私たちの意図全体を完全に歪曲した、三つの独立した断片的な映画が作られた」と語っています。
先ほども言いましたが、その悔しさ怒りはいかばかりか、胸が痛みます。

●それでも映画は生き残る
このような背景から生まれた「メキシコ万歳」は、上映時間にするとわずか88分の映画ですが、そこには想像を絶する涙と汗と歳月が染みこんでいます。
そんなことを考えて鑑賞すると、少しだけ深く映画の中に入っていけるかもしれません。

最後に映画評論家の大黒東洋士さんの映画評の一部を紹介して私のトークを終わりにします。
「メキシコの伝統、文化、宗教、風俗習慣への作者の思いが、この一作にのめり込んでいるかのようで、フィルムのはしばしに暖かい目が感じられる。ヒューマニスト、エイゼンシュテインの面目躍如たるものがある。49年ぶりに陽の目を見たという古さなどどこにもない。記録とドラマの織りなす映像のシンフォニーであり、エイゼンシュテインが第三世界に限りない讃歌を寄せた民族叙事詩でもある」。

ご静聴ありがとうございました。

トークレポート 野上照代さん(9/17)

●黒澤明監督の暗黒期…?DSCN1575s
『デルス・ウザーラ』のスタッフの(後ろに協力監督の川崎さんがいらっしゃいますが)数少ない生き残りです。『デルス』は黒澤さんの、いちばん苦しみもがいた作品です。黒澤さんは『赤ひげ』の辺りまでは輝かしい傑作がずっと続いた訳ですよ。その後『暴走機関車』は失敗して(注①)、そして彼がご存知のように『トラ・トラ・トラ!』で監督を交代というか、クビになったもんで(注②)、その後殆ど5年間空白の時代があって、『トラ~』(の降板の理由)が病気ということになっていたんですから、その名誉挽回のため『どですかでん』を撮りましたが、私はとってもいい作品だと思うんですが、商売的には非常に悪かったんですね。それのショックもあったんでしょうが、絶望的になって彼が自殺未遂までやったんですけれど、もう崖っぷちを一人で歩いているようなもんで、これがダメだったらもう、後はなかったですね。

●ソ連からの申し出
そこへソ連から「ウチで映画を撮らないか」という温かい言葉をもらって、それでもやっぱり怖かったんじゃないですかね、外国とやるのは。で、ソ連の方もアメリカが『トラ~』でひどい仕打ちをした後ですから、ウチんとこは違うぜってなもんでかなり対抗意識もあったんじゃないかと思うんですけど、ただ非常に条件が厳しかったですね。一例を言えば飛行機だってエコノミーで、私の隣で窮屈なアエロフロートに乗って…黒澤さんがエコノミーですからねぇ。それに黒澤さん以外の日本人スタッフは5人しか駄目だってことで、そこにいらっしゃる、協力監督の川崎さん、プロデューサーの松江(陽一)さん、それから私ともちろんキャメラの中井(朝一)さん、それと助監督、とにかく5人以上は許してくれなかったんですから、それでも黒澤さんはそれを呑まざるを得ないくらいに後に引けない状況だったんです。普通はなかなか決断できませんよね、初めての外国の、しかも大作で。もの凄い決断だったと思います。

●『デルス・ウザーラ』の映画化に向け動き出す
ソ連からの話で何か映画の題材として提案しろというときに、黒澤さんはロシア文学で育って、好きですからね、ドストエフスキーの「死の家の記録」とか、いろいろ案はあったんですよ。その中に探検家アルセーニエフのウスリー地方の探検記ってのがあって、「えー『デルス』を知ってるのか」と向こうも喜んだそうで、決まったんですね。デルスっていうのはロシア語ができないような案内人で、アルセーニエフとの友情ですね。黒澤さんは余程人間の優しさに飢えてたんじゃないか、ああいうのを撮りたかったんですよね。アルセーニエフ役のユーリー・サローミンさんは演技がよくて黒澤さんもすっかり気に入って、デルス役の、トゥワ(Tyva)って国の劇団の主宰のマクシム・ムンズクさんは、随分いろんな候補を見たけど結局ムンズクさんになって、キャスティングが良かったこともあります。それとキャメラの中井さんがほんとに素晴らしかったと思います。だって照明も連れてかなきゃ助手も連れてかない、一人ですからねぇ。で向こう行ってロシア語もちろんしゃべれないから、でも日本語で平気でみんなとしゃべって「そうだそうだうんうん」とやってたけど、とてもみんなからも好かれて、キャメラもよかったですしね。

●困難を極めたソ連での長期撮影
黒澤さんがいつまでも(『デルス』撮影中に)被っていた帽子を、ボロボロになったらまた同じ帽子を手に入れ被ってんのも、あの時のことを思やぁどんなことでも我慢できるよという言葉のように思います。『デルス・ウザーラ』を見ると自然にどんどん撮ってるみたいだけど、彼は画家でもあったから、画面は全部創ります。どのカットも全部、枝を持って来たりして手を入れてね。それを自ら先に立ってやると、ソ連のスタッフも一緒になって、日本での撮影と同じように全員で創るようになるんですよ。足掛け三年の撮影で最初はシベリアの八か月のロケでしたけれど、寒いときは零下三十何度で、通訳の人は拡声器を持ってしゃべっていると髭が凍り付いて離れないくらいだし、その寒さはやっぱり凄いですね。でもシベリアは夏が凄いんですよね。黒澤さんは夏に弱いこともあるんだけど、ほんとにマイってました。また食事が大変(笑)、軍隊が(撮影隊の)横についてるんですよね、で彼らが食事を作ってくれるんだけど、ひまわりの油がぎたぎた上に浮いているようなシチューとかね、黒澤さんは大体納豆が好きで(笑)、中井さんは冷奴とか湯豆腐ないのかなんてひとですからね(笑)食事はつらかったと思いますよ。食事の苦労と寒さの苦労と、そういう苦しみが黒澤さんにウォツカを呑ませたのもあります。もともとお酒の強い人だけど一日一本は普通でしたね(笑)。それで昼間の撮影を振り返り「どうしてああいう風に撮れなかったんだ。俺はこういう画が撮りたかったのに」なんて言ってね、泣くこともあるんですよ、つらかったんだと思うんですけどね。まあそのころあたしはあんまり優しくしてあげなかった(笑)ので、いい子いい子と言ってあげりゃよかったんだけど…。

DSCN1585s●虎のシーンには秘められた裏話が
『デルス・ウザーラ』は探検記だから動物なんかたくさん出るんだけど、その中でも虎の撮影は一番成功してます。でも黒澤さんが言うのにはサーカスの虎じゃ目が濁ってるっていうんですよ(笑)、人間に芸を仕込まれて堕落して。で野生の虎にしろってんで、向こうの製作のひとが野生の虎の子どもを捕まえたんです。黒澤さんが「バカ、子どもの虎じゃダメじゃないか」って言ったら、いや撮影のころにはちゃんと大きくなるって。で、ほんとに大きくなった(笑)。だけど野生だからあっち行けこっち行けったって駄目なんですよ。黒澤さんは地団駄踏んで怒るんです。「どうして出来ないんだろうね、あそこで一寸止まってこっちに来りゃいいんだよ」(笑)そんなこと言ったってね。なので野生の虎は木から木へひらひらって行くとこしか使ってない、あとはセットで結局サーカスの虎です(笑)。黒澤さんは俳優さんと動物の入れ込みをワンカットは作んないとつまんない、でもどうしても撮れない。やっぱりサーカスの虎はストップて言ったら止まるし使いやすいんですよ(笑)。まあご覧ください、よく出来てます。これはね一週間以上(撮影に)かかったな。

●違う言語で映画を造るということ
言葉が通じない中であれだけやったっていうのは大変だったと思います。私自身が考えるには外国で映画を造るってのはね、不可能ですよ。だから『トラ~』も結局成功しなかったと思いますけど、言葉の通じないところで映画を造るってことは、これは台湾のホウ・シャオシェン(候孝賢)も言ってましたが、自国で撮るのとは同じようには出来ない(注③)。だからよその国でやることは、言葉が通じないってことは無理だと。『トラ~』で黒澤監督は山本五十六を撮りたかったんですよ。自分とも重ね合わせて、と言っても(ほかの映画でも)いつもそうなんですけど。だけどアメリカは『史上最大の作戦』みたいな大活劇の予定だったんで始めっから食い違ってた。だからロシアとの場合は、『デルス・ウザーラ』を題材に選んだのはよかったと思います。ほんとに外国で言葉も通じないところで撮ること自体大変だけど、それでこれだけの傑作を造ったというのはやっぱり大変な才能だと思いますね、普通できませんね。

●黒澤監督の苦闘の跡を後世に伝えたい
 私はもうこうやってお話したり本を書いたりいろいろしてるのも、黒澤さんをもっと理解してあげればよかったと、よく言われるように“孝行したいときには親はなし”みたいな感じで申し訳ないと思うこともあって、彼がどんなに大変だったかということを伝えておきたいという気持ちもあって、この『デルス』についての本を出したい、私の最後の仕事で、何とかして黒澤さんの苦労を伝えときたいと思っていま原稿を書いてんですけど、果たして出るかどうか分かりませんができれば来年に出版したい。その時はぜひ見てください。ロシアのはワシリフさんと一緒に出したいと思ってます。有難うございました。


注①    85年にN・ミハルコフの実兄A・コンチャロフスキーの監督で米で映画化
注②    70年にR・フライシャー、舛田利雄、深作欣二の共同監督で完成
注③    候孝賢は03年に日本で『珈琲時光』を、07年に仏で『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』を監督

9/17トークゲスト 野上照代さん

野上照代さんは黒澤明監督の『羅生門』(1950年)にスクリプターとして初めて参加。『生きる』(1951年)以降の黒澤監督19作品全てにスタッフとして参加した。黒澤監督が『トラ・トラ・トラ』(1968年/20世紀FOX)での監督降板や自殺未遂事件の後に、ソ連から招かれて『デルス・ウザーラ』撮影のためにシベリアに行く際に、僅か5名の日本人スタッフの一人として参加。
なお、野上さんは日本映画界の重鎮として文化庁映画賞映画功労賞(2005年)、日本アカデミー賞協会特別賞(2011年)などを授与されている。また、早逝した父について綴った「父へのレクイエム」(1984年・読売ヒューマンドキュメンタリー賞優秀賞)を原作に後年つくられた映画が、『母べえ』(2008年/山田洋次監督)である。

社会習慣の違いなどもあり、難航したと言われている『デルス・ウザーラ』撮影秘話を中心に今回はお話しいただきます。

野上さんトークショー 9月17日(土)12:30「デルス・ウザーラ」上映前



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